| VIVIENNE WESTWOOD -ヴィヴィアン・ウエストウッド- |
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| デザイナー/ ヴィヴィアン・イザベル・スウィア |
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ヴィヴィアン・イザベル・スウェアが1971年にオープンさせた”Let It Rock”ロンドン キングスロード430番地。
全ての伝説はここから始まりました。
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| 1941年 |
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1941年、イギリスのダービーシャーに生まれる。現在では誰もが知るファッション界の女王であり、
世間離れした雰囲気を醸し出しているラジカルな彼女だが、若いころは教職の道を志していたという意外な一面を持つ。
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| 1971年 |
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1971年、SI(シチュエーショニスト・インターナショナル)に所属していたマルコム・マクラーレンと共に、
ロンドンのキングスロードに「ヴィヴィアン・ウエストウッド」のショップをオープン。
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| 1976年 |
当時は「LET IT ROCK(レットイットロック)」という店名で、1976年に至るまでに「Too Fast to Live, Too Young
to Die」、「SEX」「Seditionaries」へと、店名を次々と変えている。
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| 75年 |
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75年に「SEX」の常連客だったジョニー・ロットンやシド・ヴィシャスを擁するパンクバンド"セックス・ピストルズ(SEX PISTOLS)"をプロデュース。SM的要素を採り入れた前衛的なパンク・スタイルを流行させ、"パンクの女王"と呼ばれる。
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| 1983年 |
1983年、パリコレに発表。当時では、イギリス人デザイナーとしてはマリー・クウァント以来、2人目となる快挙であった。
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| 1984年 |
1984年秋、ヴィヴィアンウエストウッドは、東京で行われた「The Best Of Five」に、ジャンフランコフェレ、カルバンクライン、 クロードモンタナ、森英恵らと共に来日し、新たなコレクションを発表。
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| 1989年 |
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1989年ヴィヴィアンウエストウッドは、雑誌“chic sabages”で世界の優れた6人のデザイナーの1人に選ばれる。
ヴィヴィアンはいつもメンズウェアを発表していましたが、1990年7月フローレンスで行われたPitti Uomoで初めて完全なるメンズコレクションを発表し彼女は大変な栄誉である“Britishdesigner Of the year”を受賞。
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| 1998年 |
| 1998年、”アングロ・マニア”をスタート。 |
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アヴァンギャルドな中にも英国の歴史や伝統を巧みに取り入れる独特の手法で、ストリートをモードに持ち込んだことが功績として賞賛されている。また、現在ではエイズ危機を救うため、"The
Red Ribbon Fashion Event and Red And A Heart"等の慈善活動にデザインを提供し、協力している。
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| ヴィヴィアン・イザベル・スウィア |
| 1971年 |
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1971年ロンドンがカルチャートレンドの最前線にいた頃、彼女は当時のパートナーであるマルコム・マクラーレンと共にデザインを始めます。ロンドン キングスロード430番地のショップには彼らのアイデアとデザインが詰まったショーケースが並びました。彼女は新しいコンセプトの洋服を発表するたびに名前のみならずその店の装飾までをも変えていきました。1971年、キングスロード430番地は“Let It Rock(レット・イット・ロック)”という名で知られるようになります。当時ファッショントレンドはヒッピー、イギリスのラジオではロックンロールミュージックなど耳にすることがないその時代、“レット・イット・ロック”では50年代のロックンロールのレコードと洋服を扱うショップでした。1972年、そのショップは“Too Fast To Live, Too Young To Die(トゥーファストトゥーリブ・トゥーヤングトゥーダイ―生きるには早すぎ、死ぬには若すぎる)」とその名を変えます。そこでは、ジップやチェーンが施された洋服、T-シャツにはスローガン、そしてZoot suits(裾でくくっただぶだぶのズボンと長い上着)を扱っていました。“SEX”は1974年の新しいショップ名であり、オフィス用のラバーウェア、レザーボンテージ、T-シャツはジップ付き、穴空き、シュチュエーショニスト達のスローガン、そしてポルノグラフィックイメージのもの、そのような洋服を扱うショップでした。1976年パンクの時代が到来するとともに“Seditionaries(セディショナリーズ)”続いて“World's End(ワールズ エンド)"とショップ名を変えていきます。“ワールズ エンド”においてはその名を現在に至るまで、キングスロードのショップ名としています。
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| 70年 |
70年代後半、ヴィヴィアン・ウエストウッドがイギリスのアヴァンギャルドの象徴となった頃、彼女は ロンドンのオリンピアにおいて1981年秋・冬コレクションで最初のキャットウォークプレゼンテーションを発表しました。1982年10月、ヴィヴィアン・ウエストウッドは、マリークァント以来2人目のイギリス人デザイナーとしてそのコレクション発表の場をパリへと移します。それと共に彼女はロンドンに2番目のショップ“Nostalgia Of Mud(ノスタルジア オブ マッド)”をオープンします。その後1984年後半、この店の閉店と時を同じくして、パートナー マルコムから独立していくことになります。
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| 1984年 |
1984年秋、ヴィヴィアン・ウエストウッドは、東京で行われた「The Best Of Five」に、ジャンフランコ・フェレ、カルバン・クライン、クロード・モンタナ、森英恵らと共に選ばれ来日、コレクションを発表します。1984年はヴィヴィアンがファッションに対する方向性を変えた重要な年でもあります。ストリートスタイルや若者のカルチャーが、ヴィヴィアンの世界を模倣することをやめたのです。それを機に彼女は、サヴィルローテクニックの中に、17世紀のイギリスの生地に、そして18世紀のアートの中に彼女のインスピレーションの源を見つけるようになるのです。この頃に“伝統をもって未来を創る”という彼女のクリエイティビティを象徴するORBロゴが初めて使われました。
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| 1989年 |
1989年ヴィヴィアンは、フェアチャイルドパブリケーションズの社長であり、ファッションバイブルのウーマンズウェアーデイリーのエディターでもあったMR.John Fairchildによって彼の雑誌“chic sabages”において、世界の優れた6人のデザイナーの1人に選ばれます。ヴィヴィアンは常に彼女のレディスコレクションにおいてメンズウェアを発表していましたが、1990年7月フローレンスで行われたPitti Uomoで初めて完全なるメンズコレクションを発表しました。そしてこの年彼女は大変な栄誉である“British designer Of the year”に選ばれました。1991年1月には、クリスチャン・ラクロワ、アイザック・ミザリそしてフランシスコ・モスキーノと共にファッションサミットに参加するため、再び東京でコレクションを発表することを決めました。1992年、再びヴィヴィアン・ウエストウッドはその年の“British designer Of the year”に選ばれるのです。
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| 1993年 |
1993年レディスウェアを デミクチュールとも呼べるファーストライン“Gold Label(ゴールド レーベル)”とプレタポルテラインである“Red Label(レッド レーベル)”とに区分けします。“MAN(マン)”は、国際的な歓呼に応える形で1996年のミラノコレクション開催中に独立したメンズウェアのラインとして発表しました。1998年 彼女の過去のコレクションを余すことなく表現した、若年層向けまたはカジュアルに着こなせるメンズ・レディスウェアライン
としての“Anglomania(アングロマニア)”を、また同年ファーストフレグランス“Boudoir”を発表しました。
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| 70年代 |
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7
0年代のパンクファッションの仕掛人として有名になり、以後アヴァンギャルドなデザイナーの代名詞として称されてきたヴィヴィアン・ウエストウッド。現在に至っては“オートクチュールとも呼べる高度なテクニックに裏付けられた服作り”と高く評価されています。トレンドというものに全く惑わされることなく、永年貫かれている独自の“クリエーション(創造)”に対する情熱と姿勢は、今尚変わることはなく、むしろ更なる飛躍を続けるのです。
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