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世界に知られた石見銀山
石見銀山は、1526年に発見されて以来、約400年にわたって採掘されてきた日本有数の銀山です。
16世紀〜17世紀の約100年の間には大量の銀が採掘され、当時の戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われました。石見銀山は「佐摩村」にあったことから、「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれ、海外にも多く輸出されました。中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割を担いました。
17世紀前半の石見銀の産出量は年間38トンと推定され、世界の産出額の約3分の1を占めていたといわれる日本銀のかなりの部分を産出していたと考えられています。
日本にキリスト教を伝えたスペインのフランシスコ・ザビエルは、インドのゴアからポルトガルのシアン・ロドリーゲス神父にあてた手紙に「カスチリア人はこの島(日本)をプラタレアス(銀)諸島と呼んでいる。このプラタレアス(銀)諸島の他に、銀のある島は発見されていない。」と書かれており、当時日本が世界における銀の一大産地であったことがわかります。
また、海外諸国の文献にも、「福建の唐人が銀を買うために日本へ行き、風に吹き流されて朝鮮に行った。」や、「インドのカンパヤの薬品やマラバル・南洋諸島の香料を積んでシナに向かう船は・・・のちに日本銀を積むのが主要な目的となったため、ナウ・ダス・プラタ(銀船)と呼ばれるにいたった」と書かれており、石見銀山などの日本銀が大量に海外へ運ばれた様子を知ることが出来ます。
日本の対外貿易史では銀の果たした役割が重要であった。16世紀初め頃まで日本は銀の輸入国だったが、石見銀山に「灰吹法」が導入された後、一転して銀の輸出国に変わった。
日本の文化遺産ー石見銀山
石見銀山は1992年に閉山となりましたが、その後大規模な採掘や開発が行われなかったため、16世紀〜20世紀始めにかけての遺跡が極めて良い状態で保存されています。遺跡の一部は日本を代表する鉱山遺跡として1969年に国指定史跡となりました。 さらに、当時の山内(さんない)と呼ばれた銀山一帯には、寺社や民家が残り、往時の繁栄のなごりをみせています。また、銀山の繁栄とともに栄えた銀山・大森の町も、江戸時代末の面影を残していることで、1987年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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