御徒士衆から宝飾品の街へ
『御徒町』いかにも江戸の名残をとどめている町の名前は、地図を開いてみてもJR山の手線の駅名以外には使われていません。
なぜ「おかちまち」という名前なのか、なぜ宝飾品の業者が集まっているのでしょうか・・・
まず名前のいわれを調べると、あまり知られていませんが江戸の町造りは京都をお手本にして築かれていて、京都御所から見て琵琶湖になぞらえられたのが上野弁天池、比叡山に相当するのが上野寛永寺です。さらに江戸城の北方の護りとして、御先手組、御書院御番組、御徒士組といった幕臣に屋敷・長屋が与えられました。ところで江戸の町は、町人の住む町には幕府によって名前がつけられましたが、面積の八割を占める寺社・武家地は、一種の治外法権のためにために町名がありませんでしたので、庶民は俗称を使って地理の目安にしました。そのため江戸時代の地図には御徒町、中御徒町などと記されてはいるものの、公式な町名ではないのでどこからどこまでが御徒町なのかはわかっていません。
明治五年になって御徒町は正式な町名として採用されましたが、1964年(昭和39年)10月1日に町名が変更されたため、今ではJR山手線、地下鉄日比谷線の駅名として残っているだけなのです。 ところで、この御徒士組は幕臣の中でも下級の武士でしたから、江戸の中頃に入ると彼らの生活は苦しくなり、様々な内職にはげみました。中でも有名なのが屋敷の庭を利用した朝顔の栽培で、今でも行われている入谷の朝顔市のために最初に栽培し始めたのが御徒町だったといわれています。
一方、宝飾品の町としてのルーツも江戸時代にまでさかのぼります。 御徒町付近は上野寛永寺、浅草寺を始めとして数え切れないほどの寺社があったため、仏具、銀器の飾り職人もまた多く集まってきました。明治の中頃になると指輪を製作・加工する業者が増えました。中でも型を使用した量産技術が生まれ、生産地としての御徒町の比重をますます高めました。第二次大戦後には、米軍の兵士が上野で時計やアクセサリーなどを売買し、この青空マーケットがやがてアメ横の母体になりました。上野や御徒町はアメ横のバックヤードとして修理・仲買機能を果たすと共に、戦後いち早く1964年春から時計・宝飾業者同士の交換会である「市」も行われるようになり、宝飾品取引の中心地としての地位を確立しました。
御徒町が宝飾品のメッカとなったのは1956年(昭和31年)に時計関連卸11社で結成した「仲御徒町問屋連盟」がきっかけです。
現在ではJR御徒町駅を中心に2000軒以上の宝飾品問屋、加工場があるといわれるほどになり、下町風だった路面の事務所も、ファッション産業にふさわしいショールームへと変わってきました。その中心的役割を果たしているのが「ジュエリータウンおかちまち」です。
ジュエリータウンおかちまちは、台東区上野3丁目、5丁目にある159社の宝飾品問屋有志が集まって、1987年9月に設立されました。活動内容は、地域活性化のための行政への働きかけや販売促進のための共同事業、情報交換などを通じてメンバーが重視するデザイン、品質、信用をお互いに高め、しかも長期的には街を美しいイメージに変えていこうというものです。
400年に及ぶ歴史を持つ「御徒町」は少しずつ町の機能を変えながらも、そのルーツを見失うことなく、21世紀へ向けて宝飾品の街として一層の飛躍を遂げようとしています。
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